• 9月26日

    イスラマバード空港はもともとは軍用だったので、大きな迷彩色の格納庫の前に軍用機が数機並んでいる。窓側の席の僕は川内さんの6×6カメラでそれを激写。そしてゆっくりと飛行機は滑走し始め、砂埃にかすむカイバル峠の山々に向かって飛び立つ。

    国境付近から険しい山々が眼下に広がって、帰りは陸路だったな~と嬉しくもあり心配でもあり。カブール到着まで、窓から見えるのはほとんどが茶褐色の世界。

    カブール空港は東欧諸国にあるような社会主義建築で、滑走路の脇にはまだ破壊された飛行機が恐竜の骨のように横たわっている。

    自動小銃を肩にかけた税関員が押してくれたスタンプのグリップは不器用な手作りの木製。ゲートを出るとガイドをしてくれるラヒムが笑顔で待っていた。車に乗り込み滞在先となるカブールホテルを目指すが、すぐさま破壊された施設や町が広がり始める。

    ホテルより先に写真が撮りたいと22年間の戦火で破壊され続け、限りなく続くように広がる廃墟の町の真ん中で停車する。まるで遺跡のように見えるこの景色は、かつて人々が普通に暮らしていた町だったのだ。旧ソ連軍の侵攻と続く内戦で破壊されつされる以前は美術館、王宮、大学、などの歴史的建造物やバーブル庭園、コーダマン葡萄園などの観光名所があったこの町は、古くはアレキサンダー大王が建設したカブラであり、16世紀には1時期ムガール帝国の首都としも栄えた町なのだ。この国の歴史は戦争の歴史だ。旧ソ連の1979年軍事侵攻後も反ソ・アフガンゲリラは戦いを続け、1988年、和平協定を結んだパキスタンのさらなる支援協力で翌年2月、ついに旧ソ連軍は完全撤退。しかし、その直後からタリバン政権崩壊までの長きにわたる部族間での政権を争う内戦が続いたのだ。

    廃墟では家を作る男たちがいた。
    壊れた家並みの続く路地で、頭上に広がる大空に凧をとばす男の子がいた。
    手をつないで笑う女の子たちがいた。
    僕らはその姿にシャッターをきった。

    しかし、松葉杖で歩いてきた少年は「写真に撮って!」と指図して撮らせ、その後「 GIVE ME DOLLER 」と言った・・・誇り高いイスラムの男子がこづかい欲しさにそんなことをするなんて!きっと誰かが写真を撮った後にお金をあげたのだ!

    それは、物質の貧窮ではなく心の貧しさだ。少年の足は2本ともちゃんとして在り、右足に巻かれた包帯は怪我なんかではない・・・

    でも、場所を移動しながら、銃弾跡が夜空の星のようにばら撒かれた壁だらけの小学校跡で出会った羊飼いの子たちも、川で洗濯する人たちもみんな笑顔だったし、撮影の報酬を求めたりしなかった。穴ぼこだらけ、弾痕だらけの崩れかけた校舎の前に奇麗な花壇を作り水を撒いていたおじさんも、笑顔だった。

    両脇に廃墟が続く大通りを車でさらに移動すると児童公園が見えてきた。まったく、僕らが昔に遊んだあの懐かしい遊具がそこにあり、故郷で子供の頃に遊んだ仲間がそこにいる錯覚さえ覚える光景だ。ブランコやスベリ台やぐるぐる回るあの遊具がそこにあり、たくさんの子供たちがそこにいた。彼らの声は大空に響いていて、もう爆撃機のエンジン音ははるか彼方に消え去ったんだと実感する。

    しかし・・・なんでみんなカメラ向けると寄ってくるんだろう!それはTVカメラにピースする日本の子供とまるで同じ光景。とにかく元気で明るくて生き生きしている。そして、子供たちが僕に集中してる時、川内さんはいい感じにタンタンとシャッターをきり続けていた・・・ずる~い!

    僕はもう子供たちとのフィジカルなコミュニケーションに徹するしかない・・・と直感・・・だって、川内さんの方が今までの実績から言って絶対いいものを撮る確立が高いはずだもんな・・・とほほ。でも、さっきの廃墟じゃ、自分もかなり「きた!」って感じの撮れたし「いっか!」と子供並みの笑顔で思ったその瞬間、ずっとレンズキャップを付けたままで撮っていた!という事実に気づきショ~ック!!!!!

    ・・・・緊張してたんだね、俺・・・しかし、それくらい気づいておしえろよ!松葉杖少年!あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ~~~~~~!!!!!

    ショボ~ンモード全開でカブールホテルへ・・・・あ~、このホテルも社会主義建築・・・昔はいいホテルだったんだろ~な~。今は町一番の格安外人向けホテル、暗い照明の部屋、どっかの煙草のロゴ入りのバスタオル、ベッドのスプリングはとびだしている、建物自体は立派だけどずいぶんと長い間手入れされていない感じ・・・ロビーではガイドのラヒムや車を手配してくれた督永さんと会い、一緒にバザールにくりだし飯を食うことに。

    バザールの規模は想像以上に大きく、並ぶ品物も実に充実していて驚く。はっきり言って「無い物は無い」というか、生活必需品は全てある。有り余るくらいある。パキスタンと全く変わらない。そして活気はカブールが勝っている。そして、危なさのかけらも無い!成田から同じ飛行機でカブールに行くというNGOの人が言ってたのと全く違う。ニュースで見たり、雑誌で読んでたものとも全く違う。そこには物が溢れ、みんな笑顔で生き生きとして、物乞いする人なんてニューデリーの100分の1、ナポリの10分の1、つうか・・・いない!野菜、肉、米に小麦粉、数々の香辛料に生活雑貨、布や絨毯、ガスボンベ・・・なんでもござれだ。その物質的、商品的密度と言ったら、隣にうちの近所のスーパーいなげやの建物を持ってきて品物を入れ替えても有り余る!という感じ。来て見なきゃわかんないもんだ!とはまさにこの状況。督永さんに聞けば、北部には水田地帯もあり農作物の供給は足りているとのことで、いわんやマトン肉をや!なのだ。ざっと野菜を見回しても、人参、玉葱、長ネギ、トマト、じゃがいも等の基本的野菜から沖縄特産のニガウリまで!りんごも屋台に山積みだし、葡萄だってそうだ。とにかく、そんなテンコ盛りの屋台式出店がごまんとある。さらに、よくよく考えると、痩せ細った子なんて一人もいなかったし、平均寿命42才のはずが、元気な爺婆が往来を闊歩しているではないか!そうだ、乳児の死亡率が以上に高いため、平均寿命が42才になっているのだ・・・でも、乳児死亡率が日本の43倍もあるのは、やっぱり食糧が無いのか???と頭がこんがらがって、督永さんに再び聞けば、それは明らかに医療の不備であり、医療が完備されている先進国ならば簡単に助かる病気でもこの国では死につながるのだそうだ。そして、RHマイナス型血液が多い国民のために輸血事故で死亡する人も多いとのこと。

    飯を食いつつ督永さんは語りモード突入・・・この人はほんとにこの国を、子供たちを案じているんだということが熱すぎるくらい伝わり、最後には「お前ら、なにもわかってないくせによく来たな。」とも思えるくらいだった・・・でもね、僕らは来たんだよ。僕らの意思で、決して組織に派遣されてやって来た特派員やNGO職員なんかじゃなくて、来たくて見たくて感じたくてやって来たんだぜ。多分、いや絶対に、川内さんの撮る写真はカブールや東京やそんな個別の都市に限定されたものなんかじゃないだろうし、俺がここに来て感じるものだって、見ているものだってどこに行っても変わらない人間に共通する一筋通ったものが基本にあるんだ・・・と心で思いつつも、このオバハンには行動力やアフガニスタンを思う熱意では絶対かなわないと直感した・・・が、しかし、組織だった運動ではなく、人間の最小単位のたった一人で表現せずにはいれない僕らの思いがあるということ、それはわかって欲しいとも思った・・・けど、そんなん関係ない、僕はこのオバハンに見てもらいたいわけじゃない。自分が感じたものを、自分で納得できるような形にできるかどうかなんだ。と思いつつも、川内さんの写真はきっとすごいものになるはずだけど、俺はきっと体で感じるのが精一杯で、それが作品に活かされるには時間がかかるなぁと思い、また一人ショボン。

    けれども、この国とか日本とかイスラム教国とかキリスト教国とかそんなんじゃなくて、もっと人間の持つ基本的な誰もが共通して持っている感情を確かめたい。そこには飾りなんてなくて、人間ならば誰しもが分かり合い通じ合えるものがあるはずだ。しかし、その共通のものこそが形を変えて自由意志の好みともなっているのは事実だよな。人は食わなきゃ生きれないけど、誰にも食い物の好みはある。

    督永さんと別れてバザールを探索。20mおきに自動小銃を持った治安維持部隊員がいる。女の人はほぼ100%ブブカで顔を覆っている。どっかの国の新聞でみた美容院は見当たらず、各国から送られたであろう古着はアフガニスタンのブローカーに渡り、心無い者はそれを人民には届けず、バザールで蚤の市のように売られている。しかし、大人は誰しもがイスラム服だし、この国で布は普通に手に入るのだ。そして服はおしゃれのためにあるのではなく、ただ着るためにあるのだからして、必要以上に数は要らない。鉛筆ですら、書けるものが1本あればよくて、ちびた鉛筆が10本送られるよりは新品が1本欲しいだけなんだ。彼らは自発的に物乞いしているわけでもなく、貰う側にもプライドはある。

    バザールを後にして美術館へ向かうが、遠目にその堂々たる建築物が見えはじめ、近づくにつれてはっきりとしていく戦争で無残な廃墟と化したその姿に初めて涙がこぼれだす。自分が今まで見てきた美術館は、偉大な先人たちの素晴らしい作品を壁に掲げ、訪れる人々はみなその作品に尊敬し驚嘆し、鑑賞する寺院のような風格を持ったものだった。眼前の朽ち果てた美術館は、それでも威厳がありオーラを放っていると感じたのは、この眼に映った一瞬のタイムスリップ。今、目の前にあるのはボロボロで、穴ぼこだらけで、がらんとした空っぽの廃墟だ。僕らを眼にして子供が数人寄ってきて走り去っていった。その数分後、彼らは粗末なお盆に煙草や菓子を載せ、全てのポケットに水を入れたペットボトルを突っ込んで、再び姿をあらわす・・・買ってくれと言うわけでもなく、近くにたたずんでいる・・・かつては威風堂々の美術館、今は魂を抜かれた廃墟でしかない建造物、それでもここを訪れる人がいる限り、彼らはそうするのだろう。そんな状況が俺にとってはどれだけ悲痛で悲しいことか。

    ホテルに戻り、ラヒムに闇マーケットでウォッカを買ってきてもらって飲みつつ、竹井、川内、奈良は語りモード。それにしても、今日は川内さんの撮影する姿に俺は自分のあまりにも個人的すぎるスタンスを実感したし、督永さんに会っていかに自分が勉強不足であるかも痛感した。とにかく平和すぎる国にいて、ある種の感覚が鈍っていってたことに腹がたった。そして!そこで突然の停電!ここでパキスタンで買った懐中電灯が、やっぱり即役立つ。買っててよかったぁ~。

    アラブ圏唯一の非産油国でありながらもガソリン1リットル30円弱。
    肉の値段は日本の5分の1で、コーラ1缶は10円もしない。
    ほとんどの家庭に電気は通っていなくて。
    台所では炭やプロパンガスが主流。
    電気がないからTVもなく、電化製品も要らない。
    でも、それが無いのがあたりまえで、みんな平気に充分暮らしている。
    本当に必要なものは全てあるから。

    先進国と呼ばれる、いや、自らそう呼ぶ国に住む人々は、ちょっとした停電でパニックになる。
    冷蔵庫が無ければ、洗濯機が無ければ、TVが無ければ、電話が無ければ・・・電気が無ければ生きてはいけない。
    生きてはいけないはずなんてないんだろうけど、無いこと自体が信じられないこと。
    それは自分自身がよくわかっているけど、電気が発明される前も人々に幸せな暮らしはあった。
    文学も美術も音楽もあった。

    この国の子供たちの目は生き生きとしていて、貧困のかけらも見当たらなかった。
    インドや北朝鮮や飢餓で苦しむ国々に住む人々の暗い目はなかった。

    今日は走り回り、歩き回った。明日はもっともっと歩き回りたい。