• 9月15日

    体調悪し。ずっと寝て過ごす。

    スポーツの面白いところは、観ていてもプレイしてても死力を尽くして戦うほどに、その勝敗を越えて相手との間に友情みたいなものが生まれることだ。
    国や民族を代表して戦っていても、自国の応援に感謝こそすれども、そういうところを越えてプレーヤー達に共通する意識があり、時にオーディエンスにも伝わる。
    石原都知事が語っていた「国のために闘う意識」なんてくだらない。過去を己の中で美化しているだけじゃないか。
    彼はまた、国と民族を同じ物として考えているし、どうしようもない。
    「国民の税金でオリンピックに行かせてもらっているのだから、勝つべし」なんてよく言うよ。
    だったらその国民の税金は、もっと国民のために役立ってなければいけない。

    僕は自分を国でくくりたくはない。くくりが必要ならば、国や民族を越えた世代でくくりたい。
    世代は永遠ではないからこそ、そこに今生きているという感覚が生まれる。
    そして次世代への愛も生まれるんだと思う。

    僕は日本に感謝し、アメリカにも感謝する。
    ヨーロッパにも礼を言い、アフリカにもアジアにも感謝する。
    自分の慢心や弱さと戦い、悩める時にも地球に感謝していたい。

    ほんの江戸時代前まで、地方の国同士が争っていて、しかしそれは武士の戦いであり平民の戦いではなかった。
    世界大戦が悲惨で、戦後も国交にしこりを残してしまうのは、職業軍人だけではなく平民も戦士として召集され、国の名の元に駆り出されたからじゃないか!
    右翼化、左翼化、動物愛護に平和主義、なんでもござれ!
    皮肉にも歴史はいつも後で、なにが正しかったのかを証明する。
    そして人は後でその愚かさを知る。

    スポーツは敗者にも拍手が送られるべきだし、少なくともオリンピックには当たり前にそれがあるべきだ。
    選手は国王の駒ではない。ドーハの悲劇を「喜劇」と言い放つ石原は何様なのだろう。
    個人的に日本選手がその持てる力を充分発揮して勝つのは嬉しいが、一生懸命に汗をながす姿は誰でも美しい。

    敗れる悔しさは、国に対する責任ではなく力及ばなかった自分に対するものだ。
    しかし全力を出して敗れたならばそれは清々しく、ある選手のように「楽しくプレイできた」と言っても何も悪いところなどないのだ。
    国のためというプレッシャーを背負いメダルを勝ち得た人も、いつかは国よりも自分自身と国を越えた競技の本質に感謝するに違いない。

    それにしても石原都知事のこの手の発言って、どうしていつも腹立たしいのだろうか。