サンタモニカ美術館のキュレーターと電話で打ち合わせ。
英語むずかしい・・・・展示担当の人にいたっては、ヒアリングが難しくてFAXかメールにしてと言ってしまった。恥ずかしかったが、気にはしない。
キャンバス、どんどん張っていく。部屋は片付かないけど。
帰ってきてから初めてご飯を炊いた。みそ汁もつくった。うまかった。
C.S. N&Y、Led Zepp,を20年ぶりくらいに聴く。
『ひな菊の人生』を全部読んだ。今日はなにかを読んでる時間が多い。
「存在するための偽りのヒロイズムは不用」
それは逃げではなく、まさしく「自信」だ。アンドレアは、わかってるなぁ。
「ポピュリストになることを恐れず、かといって幅広いオーディエンスに受け入れられようとも考えない。それはリタにとって重要な事じゃない。」
ポピュラリティを持つ人々はアートにあこがれアーティストになろうとする。それはポピュラリティが一瞬の位置でしかないことを知っているからだ。
しかしアートはけっして永遠ではない。なぜなら、それは独自の観点によって生み出されたものであるからだ。
感情のあるところに永遠はない。そして、いくつかの方程式を世に残したアインシュタインは、人間的であった。
感情的なものを作品につぎこめば、おのずと作品は感情的になる。
それがどんなにクールな形をとっていてもだ。それくらい作品とは正直なものだ。
「芸術至上主義という考え方がある。芸術は人生や道徳の手段となるものではなく、それ自身が目的であるとしてその絶対的な価値を主張する主義のことだ。ただ、僕自身はそういう芸術にあまり興味はない。やっぱり僕にとって音楽(美術)は、その人自身が表現されたものであってほしいからだ。本物のパンクやハードコアはそうであるし、アット・ザ・ドライヴインも、まさにそうだ。ヴォーカルや楽器の音でつづられる悲しみなどの感情は、人間であれば何かしら響くはず。ぼくらは機械ではないのだから。」 行川和彦
僕がいまだに爆音ロックを聴きつづけてるのもそんなとこだ。
そして、号泣したあとに語るような静かな歌や、各地の民謡が好きなのもそんな感じによるものだ。
政治家に向かって直接中指を突き立てる美術はすくない。しかし、権力家たちは美術を恐れる。それはアーティストがインディペンデントで、独自の意見を持っていて、マジョリティの手に収まらないからだ。そして独自の観点は決して閉塞された視点では生まれない。たとえ閉塞された場所にいたとしても、独自の観点とは自身の発露をうながすものとして世界に発信される根拠になるべく自然に生まれいずるものだ。
その観点こそを、僕が賢者達の書物や数々の表現者からどれだけ自分の経験からなぞり理解できるか、あるいは自身が経験と思考から導き出せるかどうかということなんだろう。そして、それはいつも現在進行形だ。なぜなら今この時すらも自分は呼吸し考えているからだ。
そしてそれは感情の爆発時やその後の静かな時間に生まれる作品から、自分のことなのに客観的に読み取ることができる。
人間やそれに付属する動物は、本能とは別に感情を持っている。そして人間はそれを形にしようとする。それは不快感を伴う時もあるが、感情を持つ生き物としての証でもある。
その証はどんな社会の中にあっても個人に属し、判を押す共鳴者は必ずいる。その証は決して永遠ではないが、ある程度の時間は簡単に飛び越える。