• 1月9日

    繰り返しやってくる、この憂鬱。
    フタバ大使が完成してて良かった。
    こんな気分じゃたまらない。

    今日はマスクとドローイングの展示。
    システマチックな仕事は、それ以外何も考えなくて良い。
    だから嫌なことから遠ざけてくれる。

    昨夜は眠れなかった。
    制作しなかったせいもあるのだろう。

    制作することで救われている気もするがけど、それゆえに形成されていった自分の身の回りにうんざりすることもある。
    忘れられないことが、忘れてしまいたいことに変わってしまうのは嫌だ。

    今日美術館でじっくりと観たフタバ大使。
    きちんと壁に掛かって展示され、とても綺麗だった。
    それはほんとに自讃したいほど綺麗だった。
    あんなに美しいものを作り出す自分が、時々ものすごく醜い人間に思えることがある。
    美しく純粋なものが放たれてゆき、醜悪なものだけが自分の中に残ってしまう気がする時がある。
    あるいは、自分をとりまくごく一部の人が、嫌に思えてくる。
    そして自分を振り返る時、果たして己は何の否もないかというと、そうは言いきれない。
    だからこんな夜は繰り返し、繰り返しやってくる。

    俺を否定する奴らを、嫌い無視するのは簡単なこと。
    そうじゃない人はどうなんだ?
    自分は結局回りを気にしているいい格好しぃに違いない。
    製作する事と、その他の日常がはっきりとわかれていれば、制作がライフスタイルとリンクしないで、もっとシステマチックにはっきりと語れる方法論で制作できれば、こんなことで悩むことも無いのかもしれないが、俺の絵は冷静な方法をとれない。
    いつもその日の感情にことごとく左右されている。

    時々人との関わりを全て捨て去りたくなる。
    自分に対しては強くいられても、人に対しては弱くなる。
    否、それはやっぱり自身が弱いということじゃないか。

    時という観念に頼れば、少しは心も軽くはなるが、それは一番嫌いなやりかたなんだ。

    絵を描く事でどんなに悩んでも、自分は負けはしない。
    でも、どうしても弱虫になってしまう事柄もある。
    そういう問題こそが、一番自分という人間の傍にあり、制作からは遠い所にある。
    それっておかしいじゃないか!と思い悩む。

    しかしこうして日記を書いていることで、気持ちは多少は落ち着いていく。
    自分はきっと繊細な部分と鈍感な部分の差がとてもかけ離れているのだろう。
    この日記を人が読むということに対しておそろしく鈍感だ。
    いつも自分に対して、けなし反省しまたは称賛しエールを送ってきた。

    これから自分はどうなっていくのだろう。