安西水丸、彼の初期マンガ作品を思い出してみると、記憶にあるはずのない風景や人々が浮かぶ。それらは、白黒の無声映画のヒトコマのようでもあるし、僕を宿した頃の母親が見たものかもしれないような映像だ。そんなことを、やっぱり高校生の僕は考えたと思う。そう、彼の絵を初めて見たのは確か高校一年の時だと思う。当時愛読していた『ガロ』というマンガ雑誌によく載っていたのだ。高校生の僕は大人に憧れ、まだ充分残る幼さを振り払おうとしていた気がする。それでも、どうしても振り払えずにいたものがあり、それが何かわからなかったのだが、その答えは彼の描くマンガの中にあった気がしたのを思い出す。ほとんどのマンガが一人の少年の目を通じて描かれていて、彼の持つ感情は当時の自分が持っていた大人になるために捨て去りたい感情に酷似していた。絵の中でその感情は、ペンによる細い線描でシンプルに、しかし完璧に描かれていた。そして現在も登場するブリキのおもちゃやなんかも、 やっぱりセンスよく画面に配置されストップモーションのように登場していた。
村上春樹、絶対猫が好きだと僕は確信していた。小説の中で冷蔵庫にどんなに洋風の材料が詰まっていても、それでパスタなんか作ったりしても、熱いシャワーを浴びてシ ービングクリームをつけて髭を剃っても、実生活でスニ ーカーを履きジョギングに精をだそうとも(って、あんま り関係ないか......ごめんなさい)、とにかく! 午後の陽の当たる縁側(そう! 縁側!)で猫とまどろむのが好きだってことはわかっていた。そして、たぶん羊男だって犬よりは猫が好きだろう(って、これもあんまし関係ないか......)。
『ふわふわ』。その絵本に登場してくる安西さんの描くおもちゃや貝殻などは、村上さんの文章の中にはひとつも出てこない。共通の登場人物(?)は猫だけだ。けれども、絵と文はぴったり合っているはずだ。なぜなら、絵だけを見ていっても「太陽の光あふれた縁側で昼寝する猫」を、僕は想像できるからだ。
安西さんの絵がヴィジュアルとして直接的に僕の記憶に働きかけるとしたら、村上さんの文は、ゆっくりと時間が遅くなっていって一瞬止まり、そしてそこからやっぱりゆっくりと過去へ動いていって記憶の巣にたどり着く感じだ。この本に関しては村上さんと僕は、ほとんど体験を共有している気がしてくるのだ。猫にたいしての振る舞いも似ているし、なにより「だんつう」が、我家にいた猫と似ているのだ。 名前は「チャコ」といった。やっぱり、僕が六歳の時に やってきた(というか、僕がそこらへんで見つけてきた)。その時彼女はやっぱり歳をとっていたし、やっぱり気品があ て、やっぱりよく躾られていたし、なによりやっぱり賢かった。とにかく似ているのだ。学校から帰ると、いつも彼女と遊んだ。彼女と過ごした数年間でほんとうにたくさんのことを学ばせてもらったのだ。その内容について自分では「ほんとうにたくさんのこと」としか言えなかったのだが、ふわふわの「だんつう」が春樹少年に教えたものとほぼ同じであることを、この本がやさしく気付かせてくれた。
そして、安西さんが登場させるブリキのおもちゃやスノーボールなどの小物は、なぜか僕の部屋にもあるのだ。
ただ、その小物たちとチャコが同じ空間を共有したことはなかった。春樹少年はどうだったのだろう。水丸少年も猫と暮していたのだろうか。しかしとにかく、この本の中では、僕の記憶も全ての登場人物(?)と供に時間も空間も共有しているし、そんなふうに感じているのはきっと僕 一人ではないだろう。そんなわけで、忘れかけていた「猫の時間」を甦らせてくれたこの絵本は良い絵本なのです。
『ユリイカ』2000年3月臨時増刊号
「総特集=村上春樹を読む」