• 「羊男のクリスマス」 を読んでとりとめもなく

    何年か前にアムステルダムで(だったと思うが......)僕は羊男を見たことがある。彼は少し怪談っぽい雰囲気の漂う広重的浮世絵風の絵の中に静かに立っていた。雪がちらついていた気もする。それは『羊をめぐる冒険』の英語版かオランダ語版の表紙なのだけど、異様な感じがした。あまりにも僕が想像し思い描いていた羊男とかけ離れていたからだ。

    僕にとって羊男は村上春樹の小説の中でとても愛着のもてるキャラクターで、彼の少しよわっちぃところやそれでいて羊男をつらぬいているところなどが好きなのだ。そんな彼が不気味なふうに描かれていたので、驚いたのだった。「だって、やっぱし、羊男は、佐々木マキの、だよな〜。しかし、この浮世絵風の絵、なかなか上手いんでないかい」と言いつつ本屋をあとにしたのだが、あの絵は日本人の手になるものだったのかな......僕にはその絵がどうしても日本人が描いたものには(その和風な技法にも関わらず)見えなかった。

    もしかして本当の羊男は、僕が考えてるふうじゃなくてあの絵のように不気味な存在なのではないだろうか。実際に羊の毛皮をきこんで、汗をかきむれながら毎日を暮していくなんて大変じゃないか。そして、そのためにはチーズ をたくさん食べなきゃいけない気がする。

    でも、そんなふうに心配する必要はない。なぜなら、羊男は『あっちがわの世界』の住人だからだ。208や209もそうだ。村上春樹の世界の住人はみんな『あっちがわの世界』に住んでいる。全てが現実には起こりえないところの話なのだ(すくなくとも僕に関しては)。ページをめくれば話は進み、しおりを挟んだところでポーズが押される、そんな世界。そしてその世界を、僕は好きで読み返す。

    ところが、そのあっちがわの世界が、こっちがわに限りなく近づいて来る時もある。いままで、頭の中で文章からイメージ(といっても、とても抽象的なのだが)に変換させて感じていたものが、具体的にヴィジュアライズされる時だ。たとえば、佐々木マキの絵! それが暗黙に自分が考えていたものと、ぴたりと重ならないまでも、小説家の存在と重なってしまうのだ。実際に村上春樹という小説家がいるように、この世に不思議と羊男が本当にいる気がしてくるのだ。

    その時、羊男ヴィジュアル担当の佐々木マキという存在が消え、彼が描く登場人物だけが確実な存在感をもって君臨する。子供が絵本を見ながらキャラクターに入魂し、話だけは作者の代理である親から読んでもらう時に感じるものに似ている。完璧にヴィジュアライズされたキャラクターとはそうだ。

    彼の絵は高校の頃通ったジャズ喫茶で知った。店においてあったガロで見たのが最初かと思う。ジャズが大音量で聞こえる店内で、彼の絵はそこだけポッカリと空いた音のない世界だった。とにかく記憶に残った。だから、村上春樹本で再会した時は懐かしい気がした。そうだ! 村上さんの話も佐々木さんの絵も、あの頃知り合った年上の人たちが漂わせていたものを思い起こさせるんだ。彼らはある 意味で僕の先生でもあったし、先輩でもあった。でも友達 にはなれなかった。なぜなら、その頃の僕がどんなに知識を埋めていっても経験は埋めることができなかったからだ。

    あれから二〇年以上が過ぎて、僕はあの頃の彼らよりも歳をとり、いつのまにか羊男も身近になったのだ。年上のお兄さんが書いた小説も絵も、自分がリアルに感じられる物の仲間になった。いや、羊男世界から招待状をもらって 僕も仲間に入れてもらったと言うべきか。

    『羊男のクリスマス』は、あの頃の自分に戻らせてくれる。 文も絵も、そのどちらが欠けてもいけない。そして、本を閉じた後も『あっちがわの世界』で、羊男はちゃんと暮してる気がする。羊男が、彼にとっての『あっちがわの世界』すなわち穴の中での出来事が、経験したことなのに夢のようであり、「あの人たちに会いたくても、もう会えないんだ」と思うこと、それは僕にとって一〇代の頃に次々に経験したことが、今思い返すと夢のように現実味を伴わないことや、住所や時には名前すらも聞かずに音信不通になっていった人々に、会いたくても会えない気持ちに似て いるかもしれない。

    羊男世界がいつまでも平和で幸福でありますように......

    『ユリイカ』2000年3月臨時増刊号「総特集=村上春樹を読む」