アムステルダムのDE APPEL から連絡あって、ヨーロッパの日本年関係でグループショウに招待される。小沢が入ってるので楽しくなりそう。展覧会よりも、アフター5が・・・・
キャンバス絵、仕上げていく。
N.Y用のドローイング選びつつ、やっぱり新しく描きだす。
今晩中に完成させて、明日送ろう。
昨夜は朝方まで『村上春樹の絵本論・佐々木マキ、安西水丸との共作から』っちゅう感じの文章を書いていた。
一生懸命書いて400字×8枚分くらいになったが、思ったより稚拙な文になってしまった。でも、いい。文章が本業でなくてよかった。楽しんで書けた。
絵だと、楽しみだけでは学のなさを笑えない。
ばななさんの『日々の考え』というエッセイが、すげ~面白い!笑い転げてしまう。
しかし、いつか俺のことが登場するかも・・・と思い不安になる。
中学生レベルの下ネタ人間であることがバレてしまう。と、この日記書いてることがすでにばらしてるか・・・
展覧会情報まとめてnaokoさんに送ろう。
癒し関係の本の表紙依頼がくるが、僕が制作するのは人を癒すためでも自分が癒されるためでもないので断る。
確かに誰かが僕の作品で癒されることはうれしいことだが、制作自体は自分の存在理由を自分の五感をとうして確かるためにあるのではないか。
なぜなら制作を続けていく事は楽しく、それでいて途方も無く苦しいものだからだ。そして楽しい時も苦しい時も、自分がそこのいるのを実感できる。人からどんなに失望されても、自分にたいして失望はしたくない。
戦火の中で、今まさに生きる事、家族を守る事に一生懸命な人々は決して癒しを求めてはいないだろう。癒しは平穏な日常が要求する甘えではないだろうか?僕自身はどんな時に癒されたいと思うのだろうか?心が本当に癒されるのは、仕組まれたり、用意されていたりする時ではない。忘れかけていた価値観を偶然に再発見した時に、僕は癒されている気がする。それは誰かから与えられるものではないが、その偶然は突然にやってくる。それに気付き発見するのは自分で、その後でゆっくりといろんな人や出来事に感謝したくなってくる。逆説的に言えば、人は何かに感謝した時に癒されているのではないだろうか。
よくわからないが、感謝の気持ちを忘れず!・・・って書いてると、自分はそんな気持ちを忘れかけてたな・・・おお、再発見!