• 11月22日

    髪が伸びてきている。切りたい。

    福井に木枠を組み立ててもらい綿布も張ってもらう。
    2人で一つの空間にいると、15年前のことを思い出す。
    彼は東京芸大に入ったばかりの1年生で、僕は25才だった。
    僕の部屋でレコードを聴き、落書きして遊んだ。
    真夜中まで起きていては、昼過ぎまで寝ていた。
    そして僕はドイツへ行き、彼との付き合いも途絶えていたのだったが。

    彼はあいかわらずの彼のペースで、木枠を組み立て布を張っていた。
    それは僕を嬉しくさせたし、彼の変わらない魅力を感じた。
    一瞬、ここの空気が15年前と同じだった。そう一瞬。
    今は今。彼も僕もそれぞれの時間差攻撃で少しは成長したはずだ。
    でも時間差はありながら同じように成長してるので、結局2人の距離が縮まないのが面白い。
    彼は変わっていないからこそ期待できるし、また僕も学ばせてもらおう。

    やっぱり学ぶ事って、まだまだたくさんある。

    絵を描くことがなければ、僕は他人の目を気にして自己嫌悪に苛まれながら生きていくだろうか。
    制作するという事は自身からの逃避なのだろうか、挑戦なのだろうか。
    いや、逃避でも挑戦でもないし、リハビリでもない。美術史に沿った勉強でもない。
    何だと、はっきり言う事は出来ないものであることは確かだ。が、自分の中で圧倒的な存在だ。

    しかし、描き続けることで成長してきたと思っていた自分が、社会的な人間としてはまったく幼稚だと痛感させられる時。
    言葉や絵すらも踏みこめない、そういう自身の感覚がただただ得体の知れない謎の物に思えてくる。
    それはとても怖いもので、化け物のようなもので、自分はいつもそいつの大きく開いた口の中に居るのだと思ったりもする。
    僕は内へ内へと考えていく癖があるが、悟空が見た釈迦の指を思い、外へ外へと考えて自分を反省に追い込まなければいけないのだろう。
    社会的な事や義務的な事でパニックになるのは、いつも自己完結させていたからだと思う。
    が、よくわからない。よくわからないが、やっぱり自分の内で絵を描いていたいと思ってしまう。
    僕は一生、釈迦の指すら見れないだろうが、自分の指だけはいつもちゃんと見ていたい。